丸の内で働く社長のフロク Powered by アメブロ -6ページ目

陸亀

宇宙が生まれたのは138億年前という途方もない話を聞いても何も感じない私ですが、宇宙レベルで考えると人類の生息期間はほんの一瞬にすぎぬと聞くとわずかに感じるものがあります。
なんて、つまらん毎日を過ごしているのやらと……(自己啓発くさいけど、本音です)
なんと、どうでもいいことで頭を痛めているのやらと……。


そんな気分で考えると、スピード経営ってなんだろうと思います。
もちろん、決して簡単に否定できることじゃないです。スピードはすごく重要な要素だと思っています。
それでも、自ら制限時間を短くしていく意味って何なんだろうと考えるわけです。


多くの場合、そういうルールだからと従っているんじゃないでしょうか?
会社も、学校も、役所も、全部1年周期で運営されていて、納税したり、卒業したり、予算を使い切ったりする。
その周期を短くする発想は許されても、長くする発想はルール上許されません。


何が言いたいのって?
つまり、僕は高校でじっくり勉強したいので5年間通学しますっ! ってのは無理ですよね? 留年なら出来るだろうけど、3年でやるカリキュラムをハナから5年かけてやるってのは無理ですよ。
あるいは、僕の会社はゆっくり育てたいんで、決算は10年に1回にしますっ! みたいな話は通用しないわけ。やっぱり、我々は一定のルールに押し込められてるんです。知らず知らずにね。


でも、決算するのが10年に1回だったら、経営の発想はガラッと変わるんです。
てのは、その会社にとっては1年が1カ月に相当するわけで、5期計画が50年になっちゃう。
そうなれば、相当どっしり腰を据えてやれますよ。そもそも周りに影響されなくなるでしょ。


これは私の考えですが、画一性からチャレンジは起こりにくい。
多様性がチャレンジを育むはずなんです。
となれば、企業(事業・ビジネス…)発展のプロセスにも、もっと多様性を持ち込むべきなんです。
(まあ、今でも十分多様だけど……それを言ったらお終いですから)


で、企業の会計年度のあり方を1年に縛らない制度ってどうですか?
「僕の会社は1期目で100億売り上げました!」
「うぉっ! すごいねぇ! で御社の年度って何年?」
「実は20年っす! てへっ」
みたいな……
納税も当然20年に1回です。
(それじゃ法人税成り立たないじゃんとか、身も蓋もないことは結構です)


経営の世界によく持ち込まれるメタファーとしてダーウィンの進化論がありますね。
これがダーウィンの進化論(種の起源)の中で語られているかどうか知りませんが、「進化を拒否した陸ガメ」の話を聞いたことがあるんです。
(私、経営のヒントになればと何度か「種の起源」を手に取りましたが、最後まで読めたためしがありません)


あらゆる種が何らかの変異によって生きながらえたのに対して、陸ガメだけはあらゆる進化を拒み続けることで生きながらえたと。
つまり、変異だけが種を維持する術ではないんです。
進化を拒否することも、また一つの手段。
企業にもそれが当てはまる気がします。
スピードが万能であるかに見える時代だからこそ、逆転して物を考えてみるってのも「あり」じゃないっすか。
(それってスローライフ? って水を差さないでください)

簡単

他人から言われてショックだったことは数多い。
その中でも忘れることが出来ないのが、H君(当時、会社に出入りしていた大学院生。その後、なし崩し的に入社した男。今は経営者)からの一言だ。
「鎌田さんって、簡単なことを難しく言いますよね」


他人から言われたことを執念深く覚えているということがあったとしても、他人に言ってそれを覚えているというケースは少ない気がする。
私の場合、「昔、こんなこと言われたんすよ」みたいなことを言われても、ほとんど覚えていることがない。
むしろ、「オレがそんな(ひどい)こと、言うわけねえだろ」などと、頭から否定する始末だ。


そんなことで、他人から言われたからこそ覚えているのだ。
「鎌田さんって、簡単なことを難しく言いますよね」という、このケースでも、おそらくH君は覚えていないだろう。
併せて、H君はこうも言った。
「Sさんは難しいことを簡単に言いますよね」


これには参った。
そもそも簡単なことを難しく言うという、およそ説明能力が微塵もないと否定された上に、さらにごく身近で働いている同僚が自分と比較して遥かに優秀だと言われたのだ。


私は素直なのだろう。
H君の指摘を噛み締めて「確かに……」と妙に納得もし、その後、どうしていけばいいか対策を考えたようにも記憶している。
(ちなみに「簡単なことを難しく言う」問題点は比較的早期に克服したように思う。その後、「簡単なことは簡単に、難しいことは難しく」を経て、今では難しいことでも簡単に扱いすぎる問題を抱えています。)


そうなのだ。基本的に、私は何事も難しくするキライがあるのだ。
つい先日も、10数年前のH君の指摘を思い出させられる出来事に直面した。


「facebookの友達申請って、人どうしの”心理的距離感”を表してると思うんだよね。例えば、ACS(私の経営する会社)でオレに友達申請してくるヤツと、してこないヤツがいる。やっぱ、それぞれがどんな距離感で人と接するかを表してる気がするんだよ」
などと、いかにも解説っぽく偉そうに話していたところ、一緒にメシを食っていたIさんが一言。
「そんなもん、友達になりたきゃなるし、なりたくなきゃならないし、それだけじゃないっすか!」


その通りだ。やりたきゃやるし、やりたくなきゃやらんのだ。あまりにも当たり前の真理を”天然”のIさんに真正面から言われて、私はグウの音も出なかった。
そうなのだ。みんな、大して考えてなどいない。そして、それで特別困ることもないのだ。
いや、むしろ考えるだけ愚かとも言えるだろう。友達申請のことなど……
もっと言えば、あらゆることが「やりたいからやっている」だけに過ぎないのだ。


てなことで、「やりたいようにやればよし」との結論であっさり終わっておきます。

操作

今、私は不動産に関する事業を手掛けています。
一つの柱が中古マンションに投資して完全にリノベーションして再販するという事業。
(やっていて何ですが、かなり野暮ったいビジネスではあります。ただ、これが結構可能性あるんです。)
アート・クラフト・サイエンスHP

で、つくづく考えさせられるのが「情報の非対称性」についてです。
情報を持っている側と持っていない側に相当の開きがある場合、情報を所有する側はビジネスをしやすくなります。
(自分なりにはこの情報の非対称性でもって、ビジネスをやってきたんだよなぁ……と思っているほど)


今、手掛けている中古マンションのリノベーションでも、ずいぶん苦労して独自情報を収集蓄積してきた結果、ようやくマーケットでそれなりに仕事をすることが出来るようになってきました。
これだけのインターネット「情報爆発流通」時代ですから、独自情報を確保することがそもそも難しいし、一般消費者も猛烈にたくさんの情報を収集できる能力を持っちゃってます。
それだけに、マーケット内で「自分だけが知っている」ことを確保するのは大変なんです。


さて、私は事業の傍らビジネスエンターテイメント小説(書籍流通筋にはジャンル分けが難しいと悪評が立っているようです)なんぞを書いているわけですが、これを流通させる過程で、新たな気付きを得たんです。

インターネット時代になって、私たち個人は、それまでとは違う量と質の情報を得られるようになりました。
たとえば、さっきの中古マンションを例にとるなら、インターネットが登場するまでは不動産流通業者が相当有利なレベルで「相場」を一方的につかんでいました。その結果、個人側はプロに依存するしかなかった。
ところが、ネットの登場で、消費者は簡単に「相場」を知ることが出来るようになった。グーグルで検索したら、簡単に自分のマンションが「いくらなのか」わかっちゃいます。個人側はプロ並みの質と量の情報を持てるようになりました。

マンション再販のビジネスフィールドに立っていると、この個人のプロ化を肌で感じ、震えるわけです。ところが……


私が得た新たな気付きとは、何でもオープンだと思っていたはずのネットの世界が実は強烈な「情報の非対称性」に満ちあふれているという事実です。
たとえば、Amazonで「売れている順位」が出ています。これが実にリアルタイムに変っていく。
この順位表示はAmazon独自のものであって、そのロジックは公開されていません。でも消費者はその順位を当然のものとして受け止めている。
「今の流行」がすぐにわかる拠り所として、知らぬ間に喜んで受け入れちゃっています。
でも、それって本当なんですかね?
(自分の本の順位がなかなか上にいかないから苛立っているって? いや、その恨みだけで書いてるわけじゃありません)


Facebookはすごく便利なツールです。
(拙著「奥さまはCEO」(Amazonで好評発売中!)の発売以降、Facebookに奪われる時間で読書が出来なくなりました)
でも、一生懸命書き込んでも、意外とリーチが限られていることに気付きました。
それなりの専門家に聞くと、自分の書き込みがタイムラインに表示される対象はその時点で親和性の高い200名程度だと言うではないですか!

この親和性プロトコル(エッジランクとかって言うらしいですね......)によって、私の「友達」が勝手に限定されているんです。
書き込めば書き込むほど、いいねすればするほど、サイバー上の「友達」が歪んでいきます。言い換えると、リアルな友達が表示されなくなっていく。
(まあ、それはそれでいいんですが……リアルに接触すればいいんだからね)


そこで、はたと気付いたんです。
SNSは情報弱者が情報を広く伝達する画期的なツールだというのは、一部誤解を含んでいると。
一生懸命いいね! なんつって押してるけど、それがコミュニケーションの対象を減らす結果を招いているのだと。あるいは、Facebookは最初から多くの人間に一括的にコミュニケートさせる気なんてないんだなと。

考えれば、僕が「奥さまはCEO、売れてます!」なんつって、あらゆる「友達」にガンガン発信できたらFacebookの広告収入が減っちゃうもんね。
たくさんに伝えたいなら「金払え」ってことだよね。

いつの間にか、限定されている「友達」。このロジックもFacebookが明かすことはありません。常に、彼らが僕らの「友達」を操っているんです。
(すみません。変に煽動するとかじゃないので……)


それでですね。僕はブログが見直されるべきだと思うんです。
(アメーバへのオベッカじゃないですよ。藤田社長に帯を書いてもらったからでもありません)
ブログなら不特定多数に広く伝わる可能性があるもんね。
そんなことで、ブログ強化に入ります。

時間

さあ、今年も残すところ9ヶ月。というか、今年も始まって早くも3ヶ月。
年度始めの4月1日。多くの人たちが新鮮な朝を迎えたに違いありません。


かくいう私も、今朝はひときわ早く起床。
(いつもだいたい5時半くらいですが、今日はさらに早く目が覚めちゃいました。加齢が原因という分析はやめてください)
とてもさわやかな気分です。


個人的には、現在一番多くの時間を投入しているACS(アート・クラフト・サイエンス)に関与し始めて丸4年が経過。今日から5年目に突入しています。
わずかと言えば、わずかな4年ですが、されど4年。
これだけの時間があれば、何かが始まり、何かが終わり、また何かが始まって終わり、さらにまた新たな何かが始まるくらいの重みがあるんです。


先日、私の古巣のメンバー(インテがまだ“ド”が付く程のベンチャー時代、新卒で入ってきた彼とはドロドロにやったもんです)からメールがやってきました。
これで親会社が変るのも3度目ですと。
(3度目も気になりますが、「親会社」という表現にもドキリ。これについては、また機会があれば)
つまり、私がインテを離れてから4年の間に、株主がどかっと変り(非上場化)、外資のファンドがやってきて、今回ようやく落ち着ける環境(安定した戦略的株主の登場)になったというわけです。
たった4年でこれだけの変化です。


生きていると、時間が持つ「力」を忘れがちですね。
1年くらいの時間じゃ大したことはできないと思ったりする。
1日じゃ間に合わないと諦めたり、1時間で出来る分量じゃないと放り投げたり。


でも、そういう時間を丹念に積み重ねていくと、大きな変化が起きてたりする。
(起せたりするって言った方が正しいかもしれません。)
あなどれない時間のパワー。
もちろん、その時間を使ってどうするかはそれぞれに委ねられているわけで、何かを実現するのはそれぞれです。
つまり、ただ時間を経過させればいいという意味じゃありません。
3年、4年、5年という単位は何かを大胆に変化させるだけのボリュームがあるんです。


3年あれば、想像を遥かに超える結果を残すに十分でしょう。
実際、この3年で素晴らしい成果を上げている企業はたくさんある。
3年前には「こんなビジネスモデル無理じゃない?」と思っていた会社が立派に立ち上がっていたり、しまいには、上場してたり……
---私自身、インテを上場させる2年ほど前にある経営者のもとを訪問した際、一言「きついね」(つまりダメだねという意味)と言われたことを強烈に覚えています。でも、2年後に上場した時にはその会社の時価総額を大幅に上回っていた。その方に先見の明がなかったということじゃないんです。そのわずか2年の間に、インテが変化しただけなんです。


この3-4年を反省しつつも、今後3年の自分に期待して、気持ち新たにやっていこうという、少し気持ち悪いフロクでした。
とりわけ中盤、自己啓発かと思われる展開になってしまいましたが、お許しください。

か行

先日、一緒に仕事をしているMさんに
「競争好き?」
と聞いてみました。
彼女はクビを横に振りそうになりながら、どう答えるべきか推し量る……




やがて、彼女はしなやかな回答を見つけ出しました。
「負けるのは嫌い」
とてもいい回答だと思いました。
私も負けるのはいや。競争が好きかと自分に問うたとき、すっぱりと「好き」と答えられない躊躇が残るけど、「負けるのだけはいや」ときっぱり断言できます。



さて、話は飛んで「ローラーゲーム」です。
皆さんはご存知か? 私が小学生の頃だから、もう30年以上前ということになるでしょう。
東京12チャンネル(現テレビ東京……話は逸れるけど、当時の12チャンは今の5チャンからは想像できない胡散臭さでした。テレビの世界にそういう胡散臭さがなくなっちゃいましたね)で週末に放映していました。
結構なブームで、学校に行けば、その話題でもちきり。
ついていけない私は疎外感を感じたものです。



さて、なんで野球は好きだけど、ローラーゲームは好きになれなかったのか?
ローラーゲームってのは、楕円形のリンクを2つのチームがクルクルと回るだけのゲームでした。
たしか、それぞれのチームのリーダーを相手方が周回遅れにすると加点されるというような、そんなルールだったと思います。
要は、どっちのチームが勝ってるのかわからない。
勝ち負けがわからないゲームほどつまらないものはありません。
だから好きになれなかった。




つまり、「負ける」ことより嫌なことは「勝っているのか、負けているのか」わからないこと。
私が本を書いて、Amazonで事前予約が始まり、ランキング10000位だか3000位だか700位だかを上下しても、何の実感もありませんでした。
ところがようやく手に取って自分の位置付けを知ることが出来るようになったのです。
つまり、勝ち負けが見えるようになった。
と、俄然やる気が出てきたという訳です。
以下は、今日(3月23日)9時ころのAmazonランキングです。
私は鎌田和彦なので、「か行の著者」にカテゴライズしてもらったようです。



か行の著者のベストセラー
1位:川村元気「世界から猫が消えたなら」
2位:桐野夏生「ハピネス」
3位:越谷オサム「陽だまりの彼女」
4位:黒田夏子「abさんご」
5位:加藤シゲアキ「閃光スクランブル」
6位:木原音瀬「美しいこと」
7位:姜尚中「母-オモニ」(文庫)
8位:海堂尊「マドンナ・ヴェルデ」
9位:姜尚中「母-オモニ」(単行本)
10位:川上弘美「滑らかで熱くて甘苦しくて」
11位:小山清「落穂拾い・犬の生活」
12位:近藤史恵「エデン」
13位:喜多嶋隆「カモメ達のホテル」
14位:鎌田和彦「奥さまはCEO」



私の知っている作家12人中7人。
読んだことのある本12作品中3作品。
読んだことのある本がベストスリーでした。
このうち2作品は「よい作品」だと思っていただけに、このランキングは個人的にすごく意味があります。



さあ、まだ本屋さんには並んでないみたいだけど、この3冊を目標にがんばるぞっ!



好感

成功した男性は同性からも異性からも好感される。
一方、成功した女性は異性からも同性からも嫌われる。



フェイスブックのCOOシェリル・サンドバーグが書いたLean Inが話題になっていると聞いて(実際はツイッターでのつぶやきなどを見て)興味を持ちました。
(というか、シェリル・サンドバーグさんって初めて知りました。)



冒頭の調査はハーバードビジネススクールの学生に向けて行われたもの。
ある実在する起業家のケーススタディを学生に読ませる。
一つだけ仕掛けがあって、半分のグループにはその起業家の名前が女性(実在の人物は女性)になっていて、もう半分のグループのそれは男性になっている。
すると、それぞれのグループともその起業家は等しく有能だと答えるのだが……
男性の名前になっていると魅力的な同僚となり、女性の名前になっていると身勝手な「採用されたくもないし、一緒に働きたくもない」人物になってしまう。


海の向こうではシェリルさんによる「女性たちよ、立ち上がれ」的メッセージが物議を醸しているそうですが……
(この時点で、ハーバードでの実験がそのまま実証されているような気がします)
かくいう私自身も世間と同じようなバイアスで女性を見ていることになりそうです。


実際、パートナーがめちゃくちゃ有能で、彼女が働いていくほうが世の中のためになると思ったとしても、なかなか「オレが家のことはやるから、君はビジネスに集中しろよ」とは言えないのが本音。
女性の社会進出(一方、男性の家事進出)は他人事としては大がつく推進派ですが、自分のことで考えると受け入れられないわけです。
で、それがダメなんだとシェリルさんは言っている気がします。
(本編を読んでるわけじゃないので推測です。いくらかカジってみたところ、主に女性に向けられているようですが、まあ、あまり深く考えないでください)




さて、3月22日に発売される拙著「奥さまはCEO」で、まさに私はこのテーマを扱おうとしていたわけです。
したがって、このシェリルさんの主張は私にとって「我が意を得たり」でありまして(読んでもいないのに勝手過ぎますが、たぶん間違ってません)、冒頭、彼女の問題意識を共有したりしました。



拙著内でもご紹介しておりますが、2013年時点でフォーチュン500企業のうちわずか4.2%しか女性CEOはおりません。
(拙著内では5.6%になっておりますが細かいことは気にしないでください)
2003年時点で1.4%ですから極端に少ないことに変化は起きていないわけです。
(えっ? 意外に多い? そんなこと言ったら大変なことになりますよ……世の中には同じ数だけ男と女がいるわけですから)
一方、もっぱら家事に従事するアメリカのお父さんは3.4%だそうでして、こちらも10年前の1.6%から爆発的変化を見ているわけではないと。
(いずれもTIME誌から勝手に引用してます)



というわけで、実は拙著「奥さまはCEO」は今日的な生き方について示唆を提供していこうという壮大なチャレンジが含まれているわけです。
どうか、その辺りをご理解いただき度。





書籍「奥さまはCEO」は3月22日(金)に全国のローソンおよび一般書店で発売されます。取り扱い書店など詳しくはコチラをご覧ください。


翻弄

あなたはスマホが手元になかったりすると不安に感じたりしないか?
(まるで体の一部を奪われたようなソワソワとした感覚に襲われることはないか? 私はある。この前などオフィスにiPhoneをうっかり忘れ外出。その日一日なぜか所在ない感じがして仕方なかった……)
あるいは、必要もないのにタブレット端末を買ってしまい、それを持ち歩いてはスマホと交互に見てみたり。しかも、見るのは結局同じものということはないか?



つまりは、Facebookだのtwitterだのだ。
(私がFacebookをやってるくらいだから、そろそろ下火と考えてもいいのかもしれないが、たとえこれがピークアウトだとしても、それに取って代わる新種のサイトが登場するから、同じことだ)
インターネットがあり、スマホがあり、SNSがあり……我々の時間はどんどん奪われてしまう。
しかも、そこで積極的に発信しよう! などと考えた日には一日中ブログだのSNSだのに翻弄されるわけだ。



Facebookでのやり取りを思い出すと、時に背筋が寒くなる。メッセージのやり取りがチャット状態に……それがいくつも立ち上がって、それぞれのメッセージの相手方が瞬時に返事をくれる。
これって本当に便利か? 単に時間を奪われ、集中力を欠いているだけじゃないのか?



さて、だからといって、それを完全に断ち切ることは出来ない。それはわかってます。
そこで、アイデアなのだが、Facebookなりtwitterなりを利用制限するアプリを出したらどうだろう。
1日30分なら30分と設定して、それを超えると使えなくしてくれる。あるいは、朝700~800とか昼休みとか、そんな具合に使用できる時間帯を設定できるというのはどうだろう。
え? そんなのダメ? っていうか、どうにかしてほしいのよ……

土日

今から四半世紀前の話。
私が新入社員として入社したリクルートコスモス(当時、ディベロッパーです)でその光景を目にした。



その光景の発端となった配属発表は入社式直後だった気がするが定かではない。私はナンチャラ事業部ナンチャラ部というおよそ実態とかけ離れた大げさな名称のセクションに配属が決まる。
同僚となる先輩社員たちの握手が熱く、上司マネジャーは自信にあふれていた。



組織に属する者は自分の位置付けを確認したがるもの。当時の私にはそういうドロついた感性が既に備わっていた。
先輩社員と上司が醸し出すどことない選民意識。このナンチャラ部はどうやらこの会社でそこそこの位置付けなんだろうと察することができた。
まあ花形とまで言えないが、組織の中でそれなりのステータスだったナンチャラ部に収まり納得する新人(私)の傍らで、他セクションに配属の決まった女性新入社員が突っ伏して泣いていた。



配属ごときで泣くこたぁねぇだろう……と今以上に思ったが、その理由を聞いて多少同情したことを覚えている。


彼女は土日に仕事をしたくなかったのだ。


土日に休日出勤するという意味ではない。
土日がハナから出勤日で休みは火曜・水曜というサイクル。その部署は一般消費者にマンションを販売しているために土日こそ書き入れ時で、理由はそれだけのことだった。



さて、確かに土日の仕事というのは慣れるまで骨が折れるものだ。
土日の世の中には休日気分が流れている。そのために、働いていてもどこか働いている気がしない。
その一方で、平日に休むというのもどうも休んだ気がしない。それは土日に働くことの真逆で、周囲はみんな働いていることによるのだろう。



人は環境に影響を受けている。知らぬ間に世の中のリズムに合わせて生きていると言ってもいい。
土日に働くというの社会全体に流れるリズムに逆らうということなのかもしれない。
かくいう私も最近は土日に仕事をすることが多い。そして平日に休むのだが、自分でどうやってリズムを作るかについていまだに悩むことがある。
土曜の朝、ニュースを見ようとテレビをつければ「旅サラダ」だ。
日曜の朝にいたっては、ほとんどアニメのオンパレード。つまりニュースがない。
土日の新聞はどことなく緩んだムードが漂う。読者側も休みの日まで緊張感バリバリのニュースなど触れたくないだろうからそれも当然だ。



となると、どうなるか……
自分自身でリズムを作る。つまり環境に左右されないために働くモードの土日にはメディアを遠ざけるのだ。
中でも「旅サラダ」のラッシャー板前の登場は完全に労働意欲を殺がれるので気を付けている。
とまあ、書き出すときに考えていたものと全く違う結論で筆を置く。



配属での泣き笑いなど取るに足らぬということだけ加えておきます。

理由

一人で何冊も同じ本を買う理由について考えてみました。




私の友人の細君は常に読書用の1冊、保存用の1冊、都合2冊を購入するのだそうです。
この消費行動には衝撃を受けました。
かの細君は実に合理的な理由で同じ本を2冊まとめて買っている。
確かに本というものは読んでいるうちによれていくし、いつの間にやら手あかにまみれていきます。
それが保存に適さないことは明らかではありませんか。




なぜ、私はこんな当たり前のことに今まで気付かなかったのか!
今強烈に吹いている春一番が全てのちりをきれいに巻き上げて何処ともなく吹き飛ばしてしまうように、本は1冊買えばいいのだという私の既成概念は一掃されました。
私も今後、本は必ずまとめて2冊買います。




さて、のっけから素晴らしい消費行動をご紹介したことで、危うく思考停止しそうになりましたが、もう一度考えてみたいと思います。
なぜ、人は同じ本を複数買うのか?
一見、あり得ないように思えることも角度を変え、発想を変えていけば、見えてくることがあります。
固定概念に縛られれば、何も新しいことは生まれないということなのです。




こういう疑いはないでしょうか?
これは私の旧友Fさんから得た示唆です。
「どれも同じように見える本ですが、中身が本当に同じかどうかなんて誰がわかるんでしょうか?」
鋭いとしか言いようがありません。
これも今まで全く気付かなかった発想と言えるでしょう。




確かに、私たちはこんな経験をしています。
「あの本、面白かったよね? 猫がどうのこうのってやつ」
「えっ? まじで? あれは全然面白くないでしょ。猫が消えるとかカンケーねえし」
みたいな会話をよく電車で聞いたりします。

つまり、同じ本を読んでいるはずなのに、感想が全く違う上に、評価が白黒はっきり別れるという事態。
私はこれまで、これはそれぞれの価値観・感性によるものなのだと思っていました。
しかし、それはどうやら間違いでした。

まさか、表紙は同じだというのに中身が違っていたとは!
なぜこんなに簡単なことに今まで気付かなかったのか……




よくよく周辺を見渡せば、同じ製品だというのに性能が異なることがあることを私たちはごく自然に理解しているではありませんか。
「クソっ、たっくこのF通のスマホときたら、通話してるだけで火箸でも当てられたみたいに温度が上がりやがる」
「ええっ? そんなの大げさだよ。俺も同じの使ってるけど、ブチブチ会話の途中で切れちゃうとかそんな障害しか起きないよ」
みたいな会話をよくスタバなどで聞きます。
つまり、同じ製品でも個体ごとに出来不出来があるということなのです。





それがまさか書籍にも当てはまるとはっ!
今の今まで考えもしませんでした。
これなら、一人が同じ本を何冊も買うことにも合点が行きます。

「ああ、今回のは面白かったなあ。まさかラストが違うとはなあ」
とか
「紀伊國屋新宿本店に出てるヤツがホンスジらしいぜ」
とか
「丸善あたりに並んでるヤツも評判がいいらしいから、片っ端から5冊くらい買っといたぜ」
などという会話が玄人の間でなされている理由がようやくわかりました。





というわけで、一人で何冊も本を買う行動には合理性があるわけです。
そろそろ痛くなってきたので、この辺にしておきます。



週末なのに風が強いとお嘆きならAmazonを覗いてみるのもいいかもしれません。


■Amazon 『奥さまはCEO』 予約ページはコチラ

序列

世の中はまさに序列(ランキング)社会と言えるだろう。
たとえば、あるお店をググるとする。
と、なぜか一番上に表示されるのは、かの「食べログ」が案内するお店のページだったりする。



どういうわけか、お店が自ら作ったオリジナルページよりも上位表示されるのだ。
グーグルに「食べログ」の方が本当のお店よりも「お店らしい」と判断された結果だという。
どんだけ知ったかぶりなんだグーグルは! と毒づきたくなるのだが、実際一人のユーザーとしてお店を見るときには「食べログ」だけ見て終了ということがよくある。
つまり、いつの間にか、お店よりもお店らしいと最上位に序列された「食べログ」がお店以上にお店として扱われているのだ。



あな、恐ろしやネット社会。我々は常に序列にさらされ、誰かが勝手に作った序列の上で生活しているわけだ。
SEO対策などと言っているが、あれとて結局はグーグルに序列を上げてくださいと媚びているだけのこと。
序列が上がれば上がるほど、さらに優位性が増し、一度序列が下がると這い上がることが難しい。考えると恐ろしい世界ではないか。




グーグルの上位表示だけではない。
ネット上のサービスはランキングすることが大好きなのだ。
ちなみに、このフロクは今日時点で3,367位である。

(順位だけではありません。ご丁寧にアメーバでは白帯だの黒帯だのと段位までつけてくれます。ありがたい限りですが、私の段位は今日現在「青帯」だそうです。青帯って何だよと思いながら、これについてアメーバの社長に詰め寄ると、一笑に付されました。非常に残念です。)





さて、本題ですが、昨日から『奥さまはCEO』がアマゾン上で序列化され、その最後方でひっそり皆さんの予約購入を待っています。
2月26日朝6:00現在のランキングは112,111位。
(これはビリという意味だろうと私は見ています。)
そこで試みに、私も1冊注文してみたのですが、どうやらリアルタイムに順位が変わることはないみたい。
そりゃそうか……一定の周期性でぐるぐるコンピュータが回って順位を変えるんでしょうなぁ。


まあ、そんなことで、私はひとりAmazon順位に注目をするわけです。