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〜〜屋さんはいま

いまどき証券会社のことを株屋と呼ぶ人はいないでしょう。
私の記憶を辿ると90年代前半頃まではまだ「株屋」という表現を耳にしました。
(その多くは証券会社の人自身が自分の業界を自嘲して「しょせん株屋だから」などと使う場合でした)

ところが、この20年ほどで証券会社の役割がガラッと変わったからなのでしょう。
株屋という言い方が証券会社を表すものとして馴染まなくなり、それと軌を一にして株屋という表現を聞くこともなくなりました。
消費者に要らないものを押し売りする。売りつける。そんな悪い印象が「~~屋」という表現に表れていたと理解しています。

一方、「~~屋」の全てが悪辣な業者を指して使われるのではなく、むしろどこか庶民的で親しみを抱かせる対象に向けられていたとも思います。
例えば、八百屋さん、魚屋さん、クリーニング屋さんといった主に個人経営の小規模・単機能の商店がそれに該当します。
(消費者に要らないものを売りつける印象なら「~~屋」と呼び捨てられ、庶民的親しみとともに受け入れられている場合には「~~屋さん」と敬称が付されるというルールで運用されてきたと理解しています)

株屋という表現が消えていくのと同じ頃、こうした個人経営の「~~屋さん」も急速にその立場を失っていったと思います。
確かにユニクロは洋服屋ですが誰も洋服屋さんとは呼びません。確かにビックカメラは電気屋ですがその店名からしても電気屋さんとは呼びにくいと思われます。
(一方、ビックカメラをカメラ屋さんと呼ぶことにもためらいが伴います)

そして、何と言っても八百屋さん、魚屋さん、果物屋さん。「~~屋さん」の大本命たるこれらの「屋さん」に至っては、いまやイオンやヨーカドーに化けていて、業態そのものがほぼ消滅してしまっています。
(八百屋業態がなくなったいま、子供たちは八百屋さんごっこができず「イオンごっこ」をするしかなくなったということでしょうか。これはシュール過ぎます)

このように「~~屋」が消滅の一途を辿る中、唯一健在と言えるのが「不動産屋」ではないでしょうか?
しかし、実際不動産を営む人々は基本として「不動産屋」とは呼ばれたくないだろうと思います。

不動産屋と呼び捨てられず「不動産屋さん」になるためにはがっちりとローカルに根付く必要があるでしょう。
実際、地元の「不動産屋さん」として地域ととともに生きていくというのはこの業における生き残りの方法だと見ます。

一方、不動産屋から脱皮するもう一つの手段は、これまでにない呼ばれ方を目指すという方法です。
総合デベロッパーがその典型で、プロパティマネジメントやら、アセットソリューションやらなんやらと業態を定義する試みが不動産業界には繰り返されてきました。

しかし残念なことに、そうやって生み出された新たな呼称は、いずれも消費者(社会)には受け入れられずに来ています。
やや飛躍になりますが、私たちにとって不動産(土地・建物)というものは、それぞれに因縁が強く深いものなのでしょう。それゆえに、人々はそう簡単に「不動産屋」という呼び方から離れてはくれない。
そう簡単に今風のブランディング戦略が通用しないのが不動産の世界だと実感するわけです。

ドル紙幣のABC

ミネアポリス連銀総裁が交代するという記事をたまたま目にしました。
日経新聞です。

さて、なんでこんなマニアックなことに目が行くかというと、その昔、アメリカの紙幣に興味を持ったのが始まりです。
いつだったか(もうだいぶ昔ですが)、アメリカに初めて旅した頃、紙幣に大文字のEだのKだのが丸に囲われてプリントされている。それは発行している場所が違うんだよと教わりました。
(実際はプリントされている場所は同じらしいことはその後知りました)

アメリカには12の連邦銀行があるというのは、日本人からするとよくわかりません。
(まあ、いまでもよくわかっていませんが、アメリカには日銀総裁みたいな人が12人もいるという解釈でいいじゃないでしょうか。でもって、その人たちがグループ(準備制度理事会)で通貨制度を維持していると、そんな感じで理解しております)
つまり、あの丸く縁取られた大文字のBだのFだのは、12ある連銀のうち、どの連銀が発行した紙幣なのかを表しているというわけです。
(したがって、あの丸に囲まれた大文字はA~Lまでが存在します。ちなみに、アトランタはAではなくF。カンザスシティもKではなくJです。仮にZがあったら、それは偽札です)

まあ、国がでかいわけですから、日銀に相当するものが12あっても驚きませんが、なんで12なの? みたいな疑問は残ります。
(このことを知った当時は、wikiなんて存在していませんでしたから、図書館かどこかで、12の連銀はどこにあるんだなどと調べたように思います)

連銀がニューヨーク、ボストン、シカゴにあるのはわかります。
一方なんでロサンゼルスにはないの? という疑問には、日銀の支店の配置が昔ながらの伝統に従っているのと同じなのかななどと勝手に思ったものです。

で、ミネアポリスですが、私は一度だけ当地を訪れたことがあります。そのとき、よりによってなんでこんな街に連銀があるんだろうと思ったものです。
(日銀の支店が函館にある(あった?)ことに驚くのと同じ)
まあ、簡単に言えば、単なる田舎町。
雪が降って、寒くて、見るものも特別なく、食べる肉は硬くて、寿司なんて食べたら全くうまくないという印象しか残っていません。
(もちろん、すごく綺麗な、すぐそこに自然がある素晴らしい街であることも申し添えます)

何が言いたいのか、自分でもはっきりしませんが、要は私みたいな偏屈な人間は全く役に立たないことに結構興味を持ってしまうということでしょうか。
もうすこし役に立つことを勉強しないといけませんね……時間切れなのでこれで終了です。

カレンダー考

早いものでもう6月です。
ACSにおける5月は昨日(6月1日)まででした。

カレンダーを自分たちの仕事のリズムに合わせて変えるという習慣はいつから身についたのか思い出せませんが、その効用については様々な自己体験で身に沁みてわかっているつもりです。

これは極めて単純な話で、世の中のカレンダーに自分たちの仕事を合わせるよりも、仕事に合わせてカレンダーを変えたほうが合理的だということに尽きます。
ACSの5月度はGW明けの5/7から始まって6/1で終了しました。

GWは住宅購入者の動きを変える潮目に位置するので、その間に切れ目を作ることは不合理です。
一方、住宅を一般消費者向けに売っている事業者として土日は営業、火曜水曜が休業となるため、その週の切れ間に合わせて月末は月曜日(休前日)に固定しているために6/1が月末となっているわけです。

自分たちの仕事に合わせてカレンダーを作るとは、実はお客様に合わせてカレンダーを作るといううことでもあります。
これをやろうとすると、必ずと言っていいほど組織内に抵抗が生まれるものです。
ACSではもうすっかり慣れっこになっている土日営業ですが(住宅産業では当然だと思いますが)、これも最初はいろいろな理由をつけて避けようとしたものです。
(みんなが遊んでいるときに働くというのは、抵抗になりやすいということでしょう)

お恥ずかしい話、誰かが抵抗を示していたように書きましたが、自分が一番抵抗していました。
大まかに言えば、それまでの習慣を変えたくなかったということでしょうか。

変革への最大の抵抗勢力が経営者だったというお粗末な話。
カレンダーを顧客のために変えるという極めて簡単なことが当たり前になるまでに随分時間を要してしまったものだなと今は思います。
答えは顧客に聞けばいいなどと言いながら、自分都合の答えを出してしまう。
カレンダーのことを考えながら、先行きへの戒めを思った次第です。

備えることが苦手な人類の本質

世間の話に疎い私ですが、口永良部島での火山噴火についてはわかっています。
ここのところ、随分と自然災害というんでしょうか、噴火だとか地震だとかが増えています。
お互い気をつけなくてはと思う次第です。
(つい先ほども、小笠原近辺を震源とするM8.5の地震が発生しました)

ヒューリスティックという言葉があります。
人間は「先行きを見通す力がない」。逆に言えば、人は目先のことに対して素早く答えを「出してしまう」能力があるということと理解しています。

後先を考えないという言い方をしますが、これは人間の本性が元来後先を考えられないために、それを諌めることを目的に生み出されたに違いありません。
なにが言いたいかというと、今回の口永良部島での島民の方々のように日々起きるかもしれない事態に備えられているのはマイナーなのであって、一般的には、ほとんど誰も先行きへの備えをできていないだろうということです。

経営という仕事は、この人間が持ってしまっているヒューリスティックにどれだけ抗えるかということだと思います。
先を見通す力など、人類にはそもそも備わってはいない。
むしろ、目先のことに素早く反応するための機能が人間の脳には濃厚にインプットされています。
(これがヒューリスティックだと理解)
となると、そもそも中期計画を立てるなどということは至難の技であり、また、目先のことに素早く反応せず、よく考えてから答えるなど困難極まりないわけです。

逆のことをメンバーに対して指示することもよくあります。
今やれ、すぐやれ、早くやれ、というのは経営が発するごく日常的な要求です。
(よく考えてからやれ、ゆっくりやれ、じっくりやれなどという指示ができる経営者は超人的能力者であるか、まったく業績に関心がないかのどちらかに違いありません)
しかし、今すぐ早く実行できることは、いうまでもなく、全てが今すぐ早くやるべきことであって、それ以外の全てはじっくり考えてから答えを出すべきことばかりではないでしょうか。

つい先日もさしたる考察もなく、メールで提案された企画にゴーサインを出していました。
しかし、この時も、脳みその奥側から「おかしいぞ」という声が聞こえていたのです。
ところが、持ち前のヒューリスティックが機能して、その「おかしいぞ」という声を打ち消して「いいんじゃない」的ないい加減な承認を導き出しました。

そんな反応的な判断を覆す「おかしいぞ」という脳の奥からの警告にどれだけ耳を傾けることができるか。
それが経営に求められる重要な要素の一つだろうと思います。
ヒューリスティックに負けず、めんどうな再考を自分自身に求める。
経営というのは実にめんどうな仕事です。

後天的学習の効果

自分の性格についてよくわからなくなることがあります。
どうやらそれは、先天的な本質と後天的な学習のぶつかり合いによって生じるらしく、ここに他人から見える自分が加わると更にややこしくなってきます。

先日もある方から(私の目から見ても、当然ながら誰から見ても、見識も高く人を見る目もある方)「鎌田さんはおっとりしている人」と言われてたまげました。
よく考えると、確かに私は落ち着いて見えるように努力していたり、感情の昂りが表面に出ないように頑張ったり、見方によっては「おっとり」しているのかもしれません。

同種のことで言うと、今日まさに北陸新幹線に乗り金沢に向かっているのですが(この文は車中においてiPhoneで作成)、この新幹線に乗る乗車時間が迫っているというのに焦るということがありません。
以前なら、発車時刻にはキリキリと神経を尖らせて、何時に家を出てどうするだの何だの思考を巡らせましたが、それも今は昔。確かに、私はおっとりしているわけです。

さて、そんな穏やかな私ですが、あらゆる日常がゆったりと穏やかに流れているわけではありません。
私の根っこにある本性がそう簡単に絶えるはずもなく、非常に些細なことでそれが目覚めるようです。

とりわけ、目について許せず黙っていられないのは、超ミクロな凡ミスです。
凡ミスにも色々あるので、不可効力でどうにもならないということもあるでしょう。
ですから、注意の前に、それが回避できたことかどうかは確認します。

でも、不可効力でない限り、小さなことだからと見過ごすことはなくなりました。
(言わなきゃわかんないというのが、いつの間にか持論になりました)
微妙に数字が間違っているレポート、連絡忘れ、計算間違い、何であれ細かいことをミスるということは、大きなことでも間違う可能性があるということの表れだと、これまでのビジネス経験で痛いほど身に染みています。

こう考えるとカリカリするのも後天的学習の成果かもしれない。私は後天的学習の信奉者ということになりそうです。

違うスイッチをオンに

最近起きた出来事です。

ACSがリノベーション事業を開始して間もない頃から継続して利用させてもらっていたサービスの取引条件が突如変更になりました。
なんでもACSの与信を改めて確認したら、過去の取引条件では不可だということに気づいたのだそうです。
(おいおい、そこですかという感じですし、どんな見方をするとそうなるのかいまだにわかりません)

従来の取引条件で一度も迷惑をかけたことなどなかったのですが、売り手側が決めたことなので、こちらも取引したければそれに従うのが筋でしょう。
実際、そのサービスの利便性は高いので、不承不承という感じでその条件を呑んで取引を継続しました。

取引条件変更から半年ほど経過して、今度はこちら側から条件変更を求めました。
半年経過して取引量も安定しているし、こちらも悪い客ではないことが改めてわかってもらえたはずだからと。
取引条件をもとに戻してほしいと。

そちらもなかなか上品な企業で、おっしゃるに「長年の付き合いでもあるし、条件変更は失礼だったと思う」と。
ということで、条件をもとに戻しましょうで落着するものとばかり思っていました。
しかし、最後に親会社の管理セクションからのチャチャが入って、こちらからすると現状よりも酷い取引条件が突きつけられ、さすがに違うスイッチが入ってしまいました。

その企業とは二度と付き合いたくないなと思いました。
(いつ変心するかわからないので、言い切れない弱さあり)
これができるのも、小さい企業ならではです。
大きい会社ならそんなつまらない意地など張る必要がありません。
(大きい会社だと他への波及効果も考えてしまいますから)

一方、これはすごく前向きな変化のチャンスだなとも思います。
逆に取引条件を厳しくしてもらってありがたかったなと。
(別に強がっていません)
その便利なサービスは、ある意味で、こちらの「思考」を奪っていたわけです。

まあ、もちろん、そこまで考えたくないし、他にいくらでも考えるべきことはあるので、後順位のテーマだということは確かです。
それでも、せっかくの機会なわけで一度ぐるっと考えてみようと。
まだ未知数ですが、もしかしたら結構面白いかもと思うアイデアも出てきました。
それを試そうと思っています。

市井の景気ウォッチ

昨日、ホテルオークラのオーキッドルームに打ち合わせしながらランチをと考えてふらりと入りました。
時間は11時半頃だったでしょうか。
給仕係(?)の人たちが忙しなく動きながら各テーブルをセッティングして回る店内には客は一人も見当たりませんでした。

実は、その前に、もしオーキッドルームがランチの予約だけで満席だったら世の中は相当に景気が良くなっているということだよなどと話しながらそこに向かっていました。
まさかこれだけ席のあるオーキッドルームなのだから予約なしでも大丈夫だろうと高をくくっていたわけですが、結果は予約だけで満席
これまでたまたま予約なしでいつでもオーキッドルームに入れたということかもしれませんが、どうも世の中の状況が変わったように思えてならないのです。

いや、これはとてもいいことだと思います。
世の中が停滞して、ホテルオークラにやってくる客数が少なくなるよりも、余程よいことです。

さて、そんな状況下、ACSで中古マンションのリノベーション事業をやっていて思うことですが、住宅購入を考えるお客様の動きがとても活発だなと。
もっと端的に言うと、住宅購入を検討している人が増えている実感があります。

そしてまた、検討していた住戸を「買い逃した」という話が増えてきているようにも思います。
つまり、購入環境が変化して、少しずつ売り手マーケットに変わろうとしているように見えるのです。

もちろん、日本は人口減少中ですし、日々空き家が増え続けているわけで、マクロ的に見れば住宅市場が売り手市場になるなど考えられません。
ですから、これはちょっとした波に過ぎないでしょう。
しかし、どうもこの購入意欲の波は想像以上に強いようにも感じます。

これは市井の景気ウォッチャー的分析ではありますが、どうもアベノミクス効果は少しずつ広がろうとしているんじゃないでしょうか。
繰り返しますが、とても良いことだと思っています。

小さなことでしっかり喜ぶ

フェイスブックが中高年の情報共有に果たす役割は随分と大きくなっているように思います。
私は50歳近くですが、この年齢層にとってフェイスブックは友人たちの近況を知る上での最強ツールになっていると思います。
(当たり前のこと書いてますね、すみません)
先日もフェイスブックで後輩の会社が自社商品の「月次売上 大幅更新」をアップしていて、素晴らしいなと思ったものです。

いままで90だったものが100を超えた。
それを喜ぶということは、でかい会社になるとやらなくなるものです。
でかい会社の場合、初期投資も大々的にやり、目指すスケールもケチケチしていないので、わずかに変化した業績など評価に値しないわけです。
(でっかい会社とベンチャー企業との差はそんなところにある気がします)

ACSで中古マンション再販を初めた当時は、こうした小さな喜びを重ねることを忘れていました。
いいものを作る。お客様に喜んでいただく。そうした当たり前のことは常に意識していましたが、その結果を喜ぶことは忘れていたように思います。

ACSではリノベーションマンションを購入いただいたお客様の声を聞くためにヒアリングにお邪魔しています。
購入後1年を目安にアポイントを取り、お話を伺うことにしています。
当初はどんな不満があるのかを聞き、それを商品開発に生かそうという考えでしたが、結果としては「どんなことに喜んでいただいたか」を聞く場になっています。

お客様が喜んでいただいている話を直接聞くことは健全な発展の起点だと思います。
自分たちがやっていることが役に立っているという実感こそ、もっとよくしようという意欲を作り出します。
きれいごとで恐縮ですが、やはりお客様に貢献できているという実感がなければ、事業は成り立たないと強く思います。

今月は、ACSにとってお客様ヒアリング月間でもあります。
しっかり顧客の声に耳を傾け、また地道に頑張ろうと思います。

とにかく歩かないという方針

まさか再びフルマラソンを走りたいという気になるとは思ってもいませんでした。
いや、実のところ、ほのかにその可能性を感じてはいましたが、やる気がこみ上げてくるレベルとは思いませんでした。
(などと言いながら、まだ二度目にチャレンジはしていません)

そもそも、マラソンを走るというのは、体に悪いと思います。
専門的な知見はありませんが、あんなに長い距離を走るわけで、確実に「酸化」しますよね。
だというのに、またやってみたいと思うのですから、不思議です。

さて、ろくに準備もせず、フルマラソンに挑んだ時に、受けたアドバイスの中でとても役に立ったことは、「とにかく歩くな」というものでした。
足も痛むし、坂もあるし、苦しいし、歩きたくなるだろうけど、それでも歩かないことだと。

事業についても同じことだなと感じています。
とりわけ中古マンションをユニットごとに購入して、一つ一つバラバラの企画でリノベーションして再販するような極めて地道なビジネスの場合、マラソンを走る時と同じようにとにかく走り続けることが重要なんだと思っています。

走るといっても軽やかに風を切って走るという感じではありません。
それも私のマラソンと同じように、事前に痛み止めを飲み、速度を上げすぎて途中でバテないように気をつかい、水をこまめに補給し、お腹が空く前にバナナをもらいそれをほうばり、沿道に作り笑顔をふりまき(見られていないのに)、客観的にはほとんど歩いていると思われる速度でも本人的には走っているという認識で両足を前後する状態です。

かっこうはともかく、走り続けることでわかることもあります。
そもそも走り続けるだけの体力がないですから、体と相談しながら走るわけです。その中でこのペースなら走れるなとか、ちょっと右の膝が痛んできたなとか、そうした微妙な変化に気付きます。

いま、中古マンションの再販で気づく変化でいうと、駐車場を求める人がほんのわずかですが増えてきています。
これには、いろいろな見方ができるので、簡単には言うべきではありませんが、どうやら景気が少し上向いてきていて、車を所有する(したい)人が増えているということと思います。

いままでは、駐車場の有無を投資判断において重視していませんでした(ほとんどの消費者が駐車場を必要としない時代になっています)。
しかし、これからしばらくは、車の所有について多少気を使う必要があると思っています。

二匹目のドジョウ

何事も油断は禁物だと思います。
と言いながら、毎度油断してしまう私です。
このGW中半分仕事、少しゆっくりのスケジュールだったのですが、そのGW半ばに風邪を引き、一時的に良くなったと思ったら、こじらせてGWが終わっても尚本調子ではないという有様です。

最近はトレーニングもそれなりにやっているし体調には自信があり、一冬健康に過ごしていたので、夏も近づこうというこのタイミングで風邪を引くとは思いもよりませんでした。
さて、そんな油断や予断がビジネスに与える影響について触れたいと思います。

中古マンションをリノベーションして再販するACSでは、「二匹目のドジョウ」に気を付けろが合言葉になっています。
一度、成功した物件(マンション)をもう一度取り組むときには、とりわけ注意深く投資せよという考えです。

マンションの相場はみなさんもご存知の通り、世の中に相当出回っています。
ネットの普及がプロが持つ情報と一般消費者が持つ情報を同レベルにしてしまいました。
(これについては、ものすごく奥行きがあるので、また機会をもらいたいと思います。ネットの登場によって一見相場観は一般消費者にもわかるようになっていますが、実のところ、プロにしかわからない情報も数多く残っています)

それゆえに、物件ごとの価値算定はものすごく繊細です。
おまけに中古マンションの再販は薄利なので、少しの間違いが大きな損失につながるというとんでもないリスクが待っています。

ということは、一度成功したマンションというのは、どんなコミュニティで、いかなる特色があり、どのようなお客様が検討してくださるのかわかっているという点で、とてつもなくアドバンテージのある状態で査定ができます。
ところが、これがまた、大きな落とし穴になってしまいます。

マンションの住戸は二つとして同じ条件のものはありません。
(それが査定を難しくする要因の一つになっています)
一度成功したマンションの場合、その実績住戸と検討対象住戸を比較すれば容易に査定できるわけで、経験のないマンションよりも結論は早く導き出せてしまうわけです。
この早い結論が禁物で、前回成功した時に経験した特殊な要因をバリューから差し引かないことが多いのです。

たとえば、前回成功した時には複数のお客様から強い引き合いをもらっていたとします。
この場合、二度目の検討の際には、「このマンションは人気だ」という先入観を作りやすくします。
もちろん、人気だというのはいいことですが、その物件を買えるお客様は一人しかいないわけで(これがまた難しいポイント)、同時に複数が検討する場合、「見えない購入競争」が起きている可能性があります。

この見えない競争によって、あるお客様が検討を急ぎ、すんなりと購入する。
表面的には、単にすんなり決まったということだけですが、そこにはお客様どうしの見えない競争原理の働きがあったかもしれないわけです。

これが、二匹目のドジョウになってしまいます。
二度目も同じような競争状態で検討してもらえるとは限りません。
一匹目がすんなりいったために、甘い態度で取り組み、見事にしくじるというわけです。

失敗体験を引きずりすぎてもいけませんが、成功体験を信じすぎてもいけない。
事業というのは難しいものです。