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見られている意識が作用する

去年の9月でしたが、誘われるままにトライアスロンに出場したのがきっかけとなって、その後フルマラソンを走り、また、6月に再度トライアスロン参加を予定しています。
11月にニューヨークマラソンがあると聞くと出てみたくなり、そう考えると、ロンドンでもボストンでも経験してみたいと思うものですから、不思議です。

さて、そろそろトライアスロンに備えなければと思い、素人考えながらランで足腰を鍛えておこうなどと思うわけです。
選択肢はいくつかあるのですが、ジムでランニングマシーンというのもこの季節になると寂しくなり、野外を走ろうとなります。

一時期は日比谷公園を選択していました。
正直、20キロも30キロも走る気にはなれませんし、日比谷公園までは行く気になっても、すぐ近くの皇居まではどういうわけか足が届きません。
それで日比谷公園をくるくると走ります。
しかし、どうもモチベーションが上がらず、予定の距離をやりきらずに(くじけて)終わるということが続きました。

一方、皇居まで行くと、どういうわけかモチベーションが上がります。
その理由は、走っている人がたくさんいるからなのでしょう。
心理としては、のろのろと走って抜かれたくないという競争意識が一つ。
それから、同じように走っている人がいるという仲間意識。
周囲に見られているという点からくる手が(足が)抜けないという牽制(監視)されている意識も加わります。

私個人的には、克己心を維持する上では他者から見られているという意識が作用する部分が大きい気がしています。
これは、自分たちのビジネスにも通じることだと思います。

もしお客様がすぐ目の前にいたとして、その行動をとりますか?
あるいは、その発言が出ますか?
そうした問いを常に自分たちに発するように心がけています。

リノベーションは見えないパーツがたくさんあります。
たとえば、床下がどうなっているかをお客様は確認できません。
(だからこそ、確認したいというお客様もいらっしゃいます)
また、(コンクリートの)構造壁と壁の表面材の間にどれだけの空間があるかも確認できません。

それゆえに、実際どのような工事を行ったのかを明確に説明できる状態を担保するべきですし、工事プロセスもできる限り記録(画像等)するべきと考えています。
ACSでは4年ほど前から「顔の見えるリフォーム」を実行してきました。
これは、リフォームのプロセスをできるだけ詳細に記録し、ブログ型のコンテンツとしてWEB上に公開するという取り組みです。
全てを見てもらって恥ずかしくない(説明できる)仕事を地道に目指しています。

品質の根幹にあるべきもの

昨日、私が経営するベイカリー「ポワンエリーニュ」が8周年を迎えました。

高級ベイカリー業界も実は動きが激しく、外国ブランドの日本進出はこの8年間も随分たくさんあり、その状況は今も続いています。
中には鳴り物入りで進出し、あっという間に複数店舗化し、これまたあっという間に縮小したかと思えば、撤退というケースもあります。

それらを見ていて、他山の石としなければならないといつも思います。
(ポワンについても問題があれば、教えていただきたいといつも思っています)

撤退していったブランドの終焉期は、たいがい商品の品質もサービスの品質も悪くなっています。
こうした劣化の具体性が大切だなと思って見るようにしています。
ある時、終わりかけている(撤退間近の)ベイカリーでレーズンパンを頼むと「2種類ありますがどちらですか?」と言ったきり、黙ってこちらの反応を待つという現象に出会いました。
こちらはどんな2種類があるのかもわかりません。
自分がほしいものをどう説明していいかもわからず困惑していると、舌打ちせんばかりのいかにも煩わしいという態度をされて驚いたことがあります。

おそらく、彼は毎日苛立って仕事をしているのだなと感じ、商品説明どころではなかったのでしょう。
もちろん、笑顔どころではなく、まともに視線を合わせるわけでもありません。
日々、仕事に追われるような環境だから接客が悪くなるのか?
あるいは、良いお店にしたいという気持ちがないからなのか?
おそらく、後者が先にあって、前者がさらに追い討ちをかけているのだと思います。

つまり、良いブランドにしよう、良い店にしようという気持ちが満ち溢れる職場にしなければ、良質な商品もサービスも生まれないということと思います。

これは、ACSの中古マンション事業でも感じることです。
中古マンション事業開始当初、投資事業だという考えが先行していましたから、お金に働いてもらうのであって、人に働いてもらうわけではないなどという傲慢なことを言っていました。
大変に反省していますが、(当たり前過ぎますが)この事業はお金にも働いてもらいますが、人にも働いてもらわなければなりません。

お金に働いてもらうという発想は事業をどこか無機的な方向に向けます。
つまり、マンションを人の住まいという観点で見ず、投資する対象に過ぎないという態度を取ることです。
そこに住む人が自分にとって大切な人ならどうか?
自分の親友が住むことになるとしたらどうか?

そうしたごく普通に持っていい感覚を失い、
この物件はいくらのバリューか?
劣後する点を金銭勘定するといくらディスカウントすればいいか?
などなど、そもそもそこに住まう人がいることを忘れ、単に物件価値を机上で考えるようなことを起こしました。

ACSでは事故物件を扱いません。
これは相当厳格にやっています。
例えば、火災が起きたお部屋。
これは、鉄筋まで火炎が及んでいる場合、構造上、克服できない問題になる場合があるからです。
いくら安くすればいいかを考える前に、そこに住むことを勧められるかを考える。
そうすると、火災が起きた物件の取り扱いは不可となりました。
(まだ経験はありませんが、技術上、全く問題なしと判断できるなら取り組む可能性はあります)

住まいの提供者としての当たり前水準への取り組みはまだまだ鍛錬が必要と思っています。

自分たちは小売業である

日経新聞のリアル版を取らなくなってもうだいぶ経ちます。
ネット版だけにするといくつか問題があります。
それは、1面をちらっと見て最終面もついでに見るという習慣がなくなったことが代表例です。

こうなったことで、日経新聞の「私の履歴書」欄をどなたが書いているのかわからないで過ごすことになってしまいます。
今月の「私の履歴書」がニトリの似鳥社長だと知ったのは今日です。
これはネット版の便利さですが、さっそくバックナンバーから読んでみた次第です。

その中で、似鳥さんが安さ追求を怠るまいと奔走していたことを知り、自分が営む中古マンション事業に通じるものがあるなと感じた次第です。
ACSではそもそも中古マンション事業を「投資」というスコープで見ていましたから、実は自分たちが「小売」をやっているという認識はありませんでした。
すると、どうなったかでいうと、積み上げ算で「売りたい価格」を決定するようなことになってしまいました。
その当時も一応「マーケットインで値付けしよう」などと言っていましたが実際のプライシングにおいて、「お客様はいくらでその物件を買いたいだろう?」とは真剣に考えていませんでした。

もちろん、そんな積み上げ算はそうそう成立しないわけで、マーケットの中でお客様がいくらで買いたいと思うのかを見るようになりました。
しかし、本当に手頃な価格で商品を提供しようという考えにまではなかなか到達できませんでした。
理由はシンプルで、中古マンションの場合、立地によって価格の大部分が決定しますから、それをリノベーションして再販する立場では「安く提供する」余地がとても少ないためです。

コスト積み上げ型でプライシングしないまでも、結局、なかなか「お買い得な」商品を作ることができない。
このジレンマを克服するための戦いに日夜挑んでいるのが現在のACSだと思っています。
少なくとも新築マンションや中古戸建よりは格段に安い。そして、首都圏内でもアクセスが良く(主要駅まで30分以内)、望まれるだけの十分な広さと部屋数があり、日照条件も申し分がない。もちろん、行き届いた設備更新が行われ現代風のデザインが施されている。
そうした物件を2880万円の一律価格で販売するのが理想だと思っています。

中古マンションの再販は全くもって小売業だと思います。
一つ一つがバラバラで、一律的に値付けができないという不動産の特性は痛いほどわかっていますが、小売発想から見れば、まずお客様が望む価格から決定されてしかりだと思います。
そんなことで、いまACSは、まず最初にお客様への提供価格から考えるサプライヤーを目指しています。

時間経過の質

ワインの飲み方を論じるというのもキザなのですが、今回もそこから入りたいと思います。
ワインは必ずしも価格と美味しさが比例しません。
美味しさを決定する要素が実に多様だからというのが一つの理由と思います。
安いワインでも気の合う仲間と飲めば美味しいし、料理との相性の良さはときにお金で買うことができません。

高額なワインたちは、もはやどれだけうまいかではなくブランドによって価格が引き上げられてしまいます。
実際、うまいので文句も言えませんが、10万以上するワインはもはや価格決定のメカニズムは誰も説明できないのではないでしょうか。
ですから、一般的に手の届くワインで体験することから中古マンションに通じることを書くつもりです。

さて、話を戻します。
ある時入手した同じワインが10年後に全く別物になってしまうということが起きます。
これもまた入手価格が必ずしもうまさと比例しない例と思います。
それはなぜか?

出荷段階での問題(いわゆるブシュネと言われるコルク事故)は別として、全く同じ条件のワインが変化する理由は保管状態にあります。
良いワインを維持するためには、
・13~14度の温度を維持
・振動を与えない
・光が当たらない
といった要素が大事になります。

ですからワインセラーやワイン蔵のようなところで保管するということになるわけです。
ところが、悪条件下でほったらかされたワインはどんどん状態が悪くなります。
良い畑、良い作り手のワインを入手し、「10年後の記念日に飲もう!」と思っていても、保存状態が悪ければ、その10年間は劣化のためだけに時間経過したことになり、まったく美味しくありません。
(例えば、気温が上下する室内に放置しっぱなしなど、美味しさは期待できなくなります。逆に、早く飲んであげたほうがよかったということになるわけです)
逆に、作柄はイマイチだったり、畑はちょっと二流(?)みたいなワインでも、保存状態が良ければ、10年後に化けるということもあります。
(もしそれなりのワインを今買って、5年後、10年後に飲もうと思うなら、せめて冷蔵庫の野菜室には入れておきたいですね。できれば、もっと安定した環境に置いてあげてほしいと思います)

さて、中古マンションを手掛けていると、これが築20年なの? とか、これが30年も経過した建物か! と思えるほどピカピカに見えるマンションがあります。
その一方、まだ10年も経過していないのに、ずいぶんと陳腐化したものだなぁと感じるケースもあるのです。
また、時代は確かに感じるものの、良い年の取り方をしているなと、ちょっと人間を見るようなかたちで建物を見ることもあります。
つまり、中古マンションも時間経過のしかたがとても重要なのであって、必ずしも築年が新しければいいということではないし、同じ年代でも時間の過ごし方で全く別物になるということです。

マンションの保全は日常的な管理状態と定期的に実施される修繕によるものが基本でしょう。
やはり、管理が行き届き、植栽一つとっても木々が豊かに育っているマンションは素晴らしいなと思います。
定期的に修繕が行われ、共用部分が更新されていれば、古さはあまり感じません。

加えて重要だなと思うのは、私がこの場で何度か書いたことですが、そのコミュニティの質だと思います。
マンションの住民たちが少しでも気持ち良く長く大切に住みたいと考えているなら、おのずと良いコミュニティ=良いマンションができていく。
たとえば、気持ち良く住むことを考えていない住民たちの場合、せっかくのポーチスペースにタイヤを放置してみたり、他人には理解されない芸術品(?)が放置されていたり……
本来、共用部としてルールに基づいて活用しなければならない場所を自由勝手に使っているマンションは、やはり陳腐化が早いなと感じます。

私なりにコミュニティの質を確かめる一つの方法があります。
それは、マンション住民への挨拶です。
「こんにちは」「おはようございます」と元気に挨拶をしてみる。
で、常に明るく返答が返ってくるマンションはだいたいいいマンションです。
逆に、挨拶すれどもすれども、まったく反応がないケースもあるし、明らかに戸惑っているのがわかることもあります。
ああ、このコミュニティは相互に通じ合う関係がないし、周囲に関心がないのだなと感じます。
つまり、住んでいる場所への愛着が薄いのだろうと思うのです。

もし、新たな住まいをお探しなら、そこで「あいさつ」をしてみることをオススメします。

ミクロクリマ

ミクロクリマという言葉があります。
英語で言えばmicro climate。
ワインの世界では、気候条件のわずかな違いによってぶどうの作柄が著しく異なり、それが最終的なワインの品質を決定付けます。

たとえば、世界的な代表産地コート・ドール。
その26村々を南北に貫く国道974号線の西側にはまるで連なるように銘醸地が並んでいるのに、東側にはほとんど村名を名乗ることができる畑は存在しません。
つまり、道路一つ隔てただけで、そこから生み出されるワインの価値がまるっきり違うのです。

中古マンションの仕事をしていて、毎度のごとく、このミクロクリマのことを思い出します。
通り一つ隔てただけで価値がまるで違う。
そんなことが日常的に起こります。

すぐにわかることで言えば、やはり幹線道路に面したマンションは良い投資になる確率はとても低いと言えます。
いくら、その幹線道路のすぐ裏手が、優れた住宅地であったとしてもです。
あるいは、アドレス(地名)の違いもケアーすべきポイントです。
いくら同じ駅で、同じ徒歩分数であったとしても、差が歴然とすることもままあります。

それが有名な(誰でも知っているような)駅や地域で起きるならば、まだ私たちも納得がいきます。
ましてや、その違いが地域において公知となっていて、駅の南側と北側では価値が違うとはっきり言われているならば、まだ知りようというものもあります。
ところが、地元の方でもアドレスによる価値の違いを明確に把握していないということが実に多くあります。

考えてみれば、そこまで奥深く自分たちが住んでいるエリアの価値について比較するわけもありません。
だから、結局、それを自分たちで発見するしかないわけです。
ここでも、またデータ収集とその分析しか、確たる検証方法がないという結論になります。

徹底して疑いの眼で、よくよくデータを比較し合いながら見ていけば、違いには気付きます。
しかし、少しでも手を抜けば、違いを発見できず、大きな痛手となって自分たちに帰ってくるというわけです。
これは、お客様への提供価値に影響を与える要素でもあります。
つまり、駅の北側と南側で価格に差が生じている場合、安い南側を敢えて選ぶということもお客様の選択にはあり得ます。
もちろん、価格の高い北側であったとしても、そこに住むだけの価値を感じていれば、それを選択するお客様がいておかしくはありません。

供給者としての自分たちがお客様が感じるであろう価値を無視し、外形的な要素だけを並べて価値判断した時に、とんでもない問題が生じてしまいます。
となると、お客様と同じレベルでエリアを知り、そのエリアを愛す必要が出てきます。
さらに言うと、「よく知り愛す」ためにはそう多くの地域を対象とすることはできなくなるわけです。
ACSが投資している物件群を見ていただければ、お分かりいただけますが、そのエリアは相当集中しています。

納得いく商品を納得する形でお客様に届けるためには、浮気性ではやっていけないという結論になりました。
これも失敗体験からの結論だったわけですが……。
そんなことでACSでは知らない地域への投資を「落下傘降下」と呼び、まったく好んでいません。

新築と中古〜その価格差からの脱却

中古マンション流通が今後ますます成長するだろうという仮説はこの事業を手がける以前から持っていました。
実際、日本のマーケットは少子高齢化しているし、これからも新しいものを作り続けるわけにはいかない。
マンションの構造は昭和後半から平成前半にかけてほぼ確立し、長期安定的に居住することができることも、その後知りました。
さらに、平成前半以降、居住面積に対する顧客ニーズは満たされていて、現在ストックとなっている平成築以降の中古マンションは構造上十分な広さを有しています。

そうなると、内装が更新されて、最新の設備が投入されたリノベーションマンションが新築と比較して安価ならば、中古リノベーションが選ばれて当然だろうと考えました。
では、新築と対比してどの程度安価なら、消費者は中古リノベーションを選ぶのでしょうか?
みなさんはいったいどのくらい安ければ中古マンションを選びますか?

これに対する初期段階の答えは「3割の差」でした。
リクルートの調査で消費者が中古を選ぶ価格差は「3割」と出ていたのが根拠です。
しかし、これは随分と雑なまとめで、果たして築年数で何年差までなら3割差でいいのか、逆に去年分譲された「新古」であっても3割差なのかなど、法則としては大味すぎて実際の投資にはあまり役に立ちません。

一般的には、新築マンションは積み上げ算で価格が決まっていて、実際の相場観を無視する傾向があります。
乱暴に言うと、中古相場を見て、新築マンションの価格を決めるデベロッパーはないということです。
つまり、新築は買った瞬間に安くなるというのが基本原則です。
(しかし、それと逆行する現象が10年に一度くらい起こる。そういうタイミングで買うとキャピタルゲインが得られたりするので話がややこしくなってきます)

この新築との価格差はなかなか明確なロジックが見いだせないまま今日まで過ごしています。
もしかしたら、新築との価格差を議論していること自体が不毛ではないだろうかと考えるようにもなっていきました。
新築との比較から脱却する。
それがいまのACSの立ち位置になろうとしています。

これは、相場変動に影響を受けない住宅供給を目指そうとするコンセプトとも一致する概念です。
相場に強く影響を受ける新築マンションと比較しないということは、相場から遠い場所で住宅を供給するということにもつながります。
つまり、ACSでは新築マンションや戸建てを購入検討対象にはおかず、あくまで中古マンションこそ購入対象だと強く決めているお客様にこそ、商品を提供していくべきだと考えています。
(もちろん、新築と両にらみで検討していただくお客様を排除することはありません)

そう規定することで、ACSの取り組みは明確さを増しました。
新築を選ばない方に供給する商品ですから、そのエリアで、同じような価格帯の新築MSや戸建てがあってはなりません。
ですから、ACSが手がけるエリアには、新築が存在しない(あるいは少ない)ことが条件になってきました。
裏返せば、そのエリアに住みたい人にとって非常に有益な選択肢を提供できるということです。
ところが、(もうお気付きの通り)そんな条件を並べていて、事業継続できるのかという壁に突き当たることになっていきました。

ソーシャルとクラウドをめぐる二つの失策

今朝ですが、とんでもなくドキッとする事態に見舞われました。

その前に、まず私の最近のネットをめぐる失策の一つ目について関係する皆さんに謝罪です。
先日、後輩に勧められLinkedinにサインナップし使い始めました。
その際に、どうやら私のPC上にある連絡先へのアクセスを不用意にも許可し、その結果、スパム状態でもって、連絡先登録している皆様に「Linkedinを始めましょう」みたいなノーテンキなメールを送りつけていたようです。
申し訳ございません。
しかも、その後、アクセスするデバイスを変えて、せっせと情報を入力していたわけですが、それでもってまたも「つながりを増やしましょう」みたいなメッセージに乗せられて、どうやら再び連絡先へのアクセスを許してしまいました。
そうしたところ、二度(多い方ですとなぜか三度)も同じメールをお届けする結果を招きまして、会う人会う人次から次と「いやあ、せっかく誘ってもらったんだけど、Linkedinはやらないんだよね」とか「しつこいよね」とか当然と言えるご非難をいただきました。
すみませんでした。
でもって、さらに、わざわざ電話をもらって「やってない」とかメールで「やらないことにしている」など、結構な草の根のソーシャル普及調査みたいになってきまして、本当に恥じ入るばかりでした。

さて、今朝方ですが、えらい目にあいました。ソーシャル事故につづいてクラウド事故でした。
私、Dropboxのヘビーユーザーでして、何でもかんでもDropboxに入れているんです。
というのは、いろんな場所で仕事するのにすごくいいものですから、まあなんでもそこに入れていたわけです。
で、年間幾らかの金も払って何テラバイト使えますみたいになっていました。
ところが、最近、家のPCからアクセスしますと、「容量が超えていて同期できません」などというメッセージが出るようになり、テラバイト級で使えるのにそんなはずはあるまいと密かな怒りを抱えていたわけです。
そんなさなか、今朝方ですが、いよいよ「容量が超えている」というメッセージが気になり、「ああこれは、ローカルの容量が足りないってことかな」と思い、空き容量を見たらもうゲージが振り切れそうなくらい一杯になっていたわけです。
ああ、こりゃ随分と知らぬ間にデータが増えたものだななどと思いまして【マイファイル】に入っている(家のPCはmac)データをざっと見たわけです。
すると、どうやら全部に近く「これはDropboxにはいっているものとさして変わらんな」と。これは即刻解消せねばとばかり、全部デリートしたわけです。
まったく不安などありませんでした。なんせ全部Dropboxにバックアップがありますんで。
ところがです。
綺麗さっぱりゴミ箱に入れて、全削除して気持ちよくなってから、Dropboxを見て冷や汗が出ました。
どうやらそれって全部Dropboxと同期していたんですね。
綺麗に跡形もなくDropboxからデータが消失していました。
慌ててWiFi切ったりしましたけど、もうダメですよね。
でも、よかった。
もし同じように完全に同期しているならオフィスのPCにすべてあるはず。
そこから居ても立ってもいられず、愛妻が作ってくれた朝食も何を食べているかわからない状態で、取るものもとりあえず、こうしてオフィスに急行した次第です。
いま、Dropboxにバックアップしていたはずのデータをローカルにバックアップしています。もうなにがなんだか。
ああもう、とにかく利用方法を改善しないとやっていけません。
Dropoxでは選択的同期によってローカルのデータ量をセーブできるそうです。知らねえし。
ひとまず、以上です。

https://www.dropbox.com/ja/help/175

業界常識の呪縛

業界の特殊性ほど当てにならないものはないと以前から思っていました。
人材サービスを手掛けている時、ありとあらゆる業界の企業と取引をしましたが、ほぼ全ての業界が自分達は特殊だと主張します。
しかし、その特殊性はいくら考えても特殊とは言えないような類のものばかりで、閉じた環境の中で生きていると自分達が特殊だと思い込んでしまうのだなと感じたものです。

おなじような事柄に、地域の特殊性があって、支店展開する時に「名古屋は難しい」やら「京都の方が難しい」やら「実は大阪が一番閉鎖的だ」などなど。
やたらと地域の特殊性を聞かされたものです。
でも、それらは煎じ詰めると「閉鎖的だ」というだけであり、なおかつ、各地域ともに他地域と比較して明確に閉鎖的だということを証明する事実が見出せたことはありません。
考えればわかることですが、東京の会社(人)が取り立てて開放的なはずもありません。ただ単に、東京は人口も多く、企業も多い。それだけマーケットが大きいので開放的に見えるだけというのが私の考えです。
つまり、どうやら、みんな自分達が特殊だと主張したいようです。

中古マンションの再販をスタートした時、いろんな特殊性について教えてもらいました。
もっとも印象深いのが、「10勝1敗ならいいだろう」とか「4勝1敗くらいはしかたない」と言った話です。
(言う方によって、勝率が違うというのも印象深い点でした)
これは何かと言うと、「10物件取り組んでいたならば、そのうち一つくらいは赤字になるものだ」という教えでした。
(くどいですが、5物件に1物件が赤字、4物件に1物件が赤字などなど、言う方によって違いはありました)

最初、そんなことを聞いてすごく違和感を感じたことを覚えています。
そして、その後、もしかしたらそれは正しいのかなとも思いました。
理由は、負ける(赤字になる)プロジェクトが発生してしまう事実と出会ったからです。

うっすらとした違和感を抱えながらも、けっこう工夫しているのに赤字物件が出てしまう事実。
事実側を信じれば10勝1敗理論は成立する。
でもなんだかおかしい気がする。
そんな状態が長く続きました。

でも、ある時、自分の工夫が足りないだけなのだという結論に達しました。
つまり、常識的に考えて4勝1敗だろうとも10勝1敗だろうとも、一つの負け(プロジェクト赤字)も許されるはずがないのです。
赤字になるものは赤字になるべくしてなっている。
「赤字になる理由は最初からあった」という事実から目を背け、赤字になってしまったと「他人のせい」みたいにしていただけだとわかりました。

すごく簡単な話なのですが、「お客様に喜んでいただける物件だな」と思えるものは赤字になることはありません。
逆にお客様に「選ばれない理由」があるものは、一直線に赤字へと向かっていきます。
(実は、これ、とても良い効果があって、中古マンション事業を継続するためには「顧客満足」を真面目に追求しないと成り立たないということなのです)
それじゃ、「選ばれない理由」ってなんだろうとなるわけですが、これが全部ミクロの積み上げです。
多くの場合、選ばれない理由は複合的に発生します。つまり、理由が一つじゃない。
こういうバラバラの要因を属人的ではなく、形式知にすることが必要になっていきました。

希少価値は価値ではない

中古マンションを再生して販売する仕事には制約がたくさんあります。
まず、投資し再生する物件の立地を変えることはできません。
それから、共用施設を変えることもできません。

2K3Hについてはすでに書きました。
住宅購入者が重視する5大要素ーーー価格、距離、日当たり、広さ、部屋の数。
このうち、中古マンションをリノベーション再販する事業者にとって可変的なのは価格と部屋数だけです。
駅からの距離も日当たりの良さも部屋の広さもリノベーターは変えることができません。
(もちろん、日照条件を配慮した内装や狭いスペースを有効に利用する策を講じるなどの工夫には常に余地があります)
そして、部屋数という要素についても、実際変更するケースは極めてマイナーなので、事実上、価格だけが事業者にとって可変的だというすごく窮屈な条件で仕事をすることになります。

こうした条件下で生きていく中で、行き当たった一つの解に「『希少価値」に価値はない」というものがあります。
一般的にいえば、希少価値というくらいですから価値はあるわけです。
しかし、ACSが手がけているリノベーションマンション事業では、その価値を一切認めなくなりました。

人材も不動産も同じものが二つ存在しないという点で共通しています。
同じような物件は存在しても、同じ物件はない。
つまり、個体ごとのバラツキがかなり大きいわけです。

当初、まだ多少は「希少価値の価値」を信じていた頃、手がける物件に「誰か一人買ってくれる人が見つかればいいんだから」という励ましをもらったものです。
しかし、その一人がなかなか出てきません。
そこで気づきました。簡単なことです。その物件は希少というよりもニーズがないスペックだっただけなのです。
(価格が安ければいい? これも危険な解だと言わざるを得ません。この考え方でも随分と失敗しました)

物件も希少かもしれませんが、買うお客様も希少だという当たり前の事実。
ところが、その希少な物件にも投資をしていった。
これまた理由はとても簡単で、それらは全て、物件だけ見ればとても良いものばかりだったからです。
しかし、それとて、買い手であるお客様を見ず、物件の良さだけを見てしまっていたから陥った過ちでした。

さて、前回後段に書いた「広い部屋が狭い部屋よりディスカウントされる」というロジックですが、ここには「お客様が買いたい価格」と「住みたい住戸のスペック」の見極めが前提条件として存在します。
「お客様が買いたい価格」と「住みたい住戸のスペック」が見極められていないと、このロジックはしっかりと働きません。
が、おおむね、ある水準以上の広さを持った住戸は大きくディスカウントされてしまうのが、日本の中古流通に共通する傾向だと、私は見ています。
なぜなら、1住戸あたりに住む人数が年々減っているから。住まう人数がどんどん減少していくわけですから、広さはある閾値を超えて以降、無駄でしかなくなるわけです。

話を戻します。
ここでは、広さ70㎡がお客様にとってほしいスペックの理想だとします。
それを3000万円で買いたいとしましょう。
そこに60㎡で3000万円のマンションと90㎡で3000万円のマンションがあるとき、お客様はどちらを選ぶかということです。

普通に考えれば、後者でしょう。
予算範囲で、理想よりも20㎡も広い家が手に入るわけですから。
でも、答えは逆になる確率が高い。

ここで、マンションにおける特殊要因を考慮する必要が出てきます。
それが管理費・修繕積立金です。
一般的にお客様はローンを組んで住宅を購入します。
物件価格3000万円を35ローンで買うと月々の負担は92,000円程度です。
一方、管理費等の負担は60㎡の場合、だいたい20,000円程度ですから、その負担割合からすると家の維持コストの2割程度にも達します。
ここで、90㎡を検討してみます。同じマンションだとした場合、管理費等は専有面積に応じて決定されますから、60㎡の住戸に比較すると単純に1.5倍の30,000円となります。
(お客様の理想とする70㎡の住戸がこのマンションにあった場合には、管理費等は23,300円)

さて、お客様は理想よりも10㎡小さい部屋を想定よりも月間3,300円安いコストで買うか、理想よりも20㎡広い部屋を月間負担を高めてまでも買うか、どちらだろうかという問題です。
多くの場合、答えは広さを犠牲にして負担を減らすほうに向かいます。
それほど、お客様の経済的負担に対する感覚はシビアですし、広さについては理想以上のものをわざわざ負担を高めてまで欲しいとは思わないということなのです。

このケースで90㎡のお部屋を買ってもらうためには、管理費等の負担分だけ物件価格から割り引かなくてはなりません。
ローン負担から逆算すると、それは約300万円。
ロジックを積み上げると、この90㎡の住戸は2700万円なら買ってもらえるということになるのです。

もちろん、これはあくまで仮想の話です。
現実には、ここまで綺麗にディスカウントされることはありません。
しかし、明確なのは、いらない広さにお客様はコストを支払ってはくれないということです。
こうした見方を重ねる中で、ACSでは「不要な広さ」を割り出す作業が始まりました。

相場と無縁であろうといコンセプト(続き)

EDLPという小売りにおける標語はもうずいぶん古びた印象があります。
everyday low price。
ずいぶんと昔から、いろんな企業がそれを掲げ、目指しました。

ところが、最近、そうした企業がめっきり減っているように思います。
「良いものをいつでも安く」の精神は日本のマーケットではすたれてしまったのでしょうか?
あるいは、魅力のあるアプローチとは言えないということでしょうか?
それとも、あまりにも一般化したコンセプトであるがゆえに、語るまでもないということなのか、このあたりが私にもよくわからなくなっています。

最近たしかに給料が上がる、ベア復活と言った「いい話」を耳にするようになりました。
しかし、それでも、日本で生活する者にとっての先行きへの不安はぬぐえていないと思います。
ここのところ詳細なデータは見ていませんが、日本で生活する者たちの給料は全平均で見れば上がってはいないはずです。
株が上がる、資産が上がる……そうした効果を享受できる層はごく一部でしかありません。
やはり、二極化(中間層が消えていく)の傾向は変わっていないのではないでしょうか。

だからこそ、安定した価格でモノが供給されてしかるべきと私は思います。
それは住宅(とりわけ「中古マンション」)にも当てはまると思うのですがどうでしょうか?
住宅を資産ではなく「生活必需品」として捉えれば、わかりやすいはずです。

前回、ACSが「どのように街を選定しているか」を書きました。
今回はどのように「もの選び」しているかについて「生活必需品」供給者の視点で説明させてもらいます。
ACSでは2K3Hの「もの選び」を大原則においています。

2Kとは「価格」「距離」(通勤先・通学先への距離・時間、駅からの距離・時間)。
3Hとは「陽当たり」「広さ」「部屋の数」です。
一等はじめに、「価格」が出るのは、消費者の意識がそこに強く働いていることをデータでも、現場実感でも確認できているからです。
なによりも「買える価格」「ほしい価格」(つまりは安定した価格)で提供することが供給者には求められているのです。

それ以外の「距離」「陽当たり」「広さ」「部屋の数」にもお客様が望む典型像がしっかり存在していますが、なによりもやはり価格が大事だと私は捉えています。
そして、供給者として「価格」のコントロールが一番難しいといえます。
他の4つの要素は多少妥協する余地がありますが、価格だけは譲れません。
それは常にお客様が望む価格でなければならないのです。

ところが、当初ACSは、自分たちが供給できる価格でものを見ていました。
もちろん、当時もそんな意識はありません。相場を見ていましたし、取引事例を穴が開くほど見ていましたので。
でも、それはお客様が望む価格ではありませんでした。
いったいお客様はその物件をいくらで買いたいだろう? この極めて素朴な解をどう導き出すかがカギでした。

つまり、その価格で提供しようと考えると、自ずと物件のスペックが決まってくるようになったのです。
そこでおもしろい現象にも気づきました。
それは、同じマンションで専有面積の「狭い部屋」が「広い部屋」よりも理論上高く査定されるべきという結論が生まれ始めました。
もちろん、理論上ではありますが、価格を詰めて考えていくと、どうしてもそうなってしまう事態でした。
時間になりました。また、続きを書かせてください。